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瀕死のユーモアは救えない【雑記】

僕の中のユーモアが死にかけている。

 

面白みの無い人間になってきているし、人からすれば面白いであろうものの面白さが伝わりづらくなってきている。自分ではウケることを言ったつもりでも、定型詞のひとつだったり常用的な比喩だったりしてウケづらい。

 

とにかく、僕の中のユーモアが死にかけている。

 

それじゃ元から自分にユーモアセンスがあったのかという話にもなるが、以前はそもそも自分のユーモアセンスを疑わなかった。

人にウケているかどうかも、ウケるかどうかもある程度はわかっていたし、自分のセンスのしょうもなさもある程度受け入れたうえで少しはユーモアがある人間だと思い込んで生きてきた。人のユーモアも受け入れて咀嚼し笑い合うことができていた。

 

 

何故、どうして物事を面白がることが難しく感じるのだろう。

 

それは多分、僕が卑屈ではいられなくなったからだ。

 

何故かもう社会人もどきになってしまっていて、社会人として生きていくのに卑屈さが不要である・邪魔であることに気づき始めているからだ。

社会をただ真っ当に生きようとするうえで、一定以上は要らないものが卑屈さと脳内の煩雑さだ。

卑屈さはユーモアセンスと深く結びついていて、卑屈のフィルターを通して伝えたものほど人に面白がられる傾向にある。卑屈さとユーモアセンスのふたつが表裏一体とまではいかずとも、なんとなく比例はしていると思う。

卑屈であればあるほど物事が捻じ曲がって見えるし、何かと何かを結びつけて比喩したりユーモアを絡めながら的確に表現することが容易になるように感じる。

脳内が煩雑であるほどランダムな単語から共通項を見出しやすく、独特のセンスとして認められやすい。

 

ただ、年齢を重ねるにしたがって不必要な知識や記憶は消えていく。

真面目に日々を生きれば生きるほど、定型的なネタ以外は自分の中で淘汰されていくし、物事の結び付け方さえ忘れてしまいそうになる。

それに社会人に必要以上の卑屈さは恐らく要らないし、脳内の煩雑さは注意欠陥のもとになるから今は薬と意識で意図的に消してある。

 

 

…だから何が悪いという話でもないが、人生を真っ当に生きようとするほどユーモアがどこかに飛んでいく。

 

結論から言ってしまえば、真っ当に生きなければ解決するとは思う。

たとえば自称クリエイター・自称芸人・無職にでもなれば、そのうち憂鬱になってそれが自ずとユーモアと結びついてくる。

だが、ワガママ言わせてもらうとそんな生き方はハッキリ言って嫌だ。

ある程度の真面目さと、不誠実さ・卑屈さを兼ね備えた生き方をすることはどうにかできないかな~と模索しているところ。

 

 

…思えば「まじめにふまじめ かいけつゾロリ」 は不真面目の度合いが9割5分くらいあったような気がする。真面目じゃなくてマジめなのかもしれない。

多分、生きるのももっとテキトーでいい。

普通の人っぽく生きるのに憧れすぎると、自分を見失っていくのを感じる。

 

これは僕の感覚的な話でしかないけど、人の個性と異常性は表裏一体だ。言わずもがな同じものだとする人もいるが、納得しない人もいるからこれは一応僕個人の意見としておく。

 

言ってしまえば地下鉄でブツブツ言っているおばさんより個性の強い人間はいない。

例えばそのおばさんとテイラースウィフトなんかを比べた時、異常性のトゲがどっちに向いているかの違いしかないと感じるのだ。人に受け入られる方向に向いているか、その逆か。

 

個性と異常性が同じものだとしたら、人に変な目で見られるか愛されるかは結局受け取り手次第でしかない。志村けん演じる変なおじさんも、劇中ではクソ変態イカレ変人だけど、垂れ幕の外や傍から見れば愛されキャラだ。

 

ちょっと前までしっかりした人を目指して軌道修正していったけど、ちょっと変な人くらいで生きてもいいな、と最近になって思い始めました。

9割5分くらい不真面目で働き方や過ごし方を考えていいな~、と。思いつつ。

働き始めて一か月経ちツイートが減ったり20歳になったりしました。

 

 

ゾロリOP、良すぎん❓❓❓

 

結論:このユーモアはどうせ死ぬしもう死んでるので放置する