粉。趣味:ぶろぐ

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フリースタイル感情

※noteに書いたものを有事に備えてはてなブログに転載したものです

 

久しぶりにnoteを使っている。「ご自由にお書きください。」と白紙のページに薄い字で書いてある。
ご自由にお書きくださいじゃねぇよ。と思うのは多分、この件に応募するにあたってテーマが「アメリカの入学式」だからだ。

 

 

アメリカ」と「入学式」は単語としても物や概念としても存在するが、「アメリカの入学式」は「存在しないもの」としてしか、概念しか存在してない。二つの語を繋げるだけで存在しなくなるの、あまりに儚い。ぷよぷよでも4つだし。テトリスでも一列だし。この世界の言葉の組み合わせは無限なのに、存在できるのはほんの一握りだ。「アメリカの寿司」なら酢飯さえあればネタがなんでも一握りにできるのに。うるせえよ。

アメリカの入学式はあまりにもフリースタイルなテーマすぎる。というか、「存在しない」というごく限られた情報と、「アメリカ」と「入学式」のそれぞれから連想されるワードからしか話を紡ぎようがない。人種のサラダボウルとか、経済大国とか、桜とか、出会いとか。それぞれを散りばめたとて、「アメリカの入学式」それ単体には辿りつかない。存在しないからだ。逆に存在しないのがアイデンティティなのだろう。

ちなみにGoogle で「アメリカの入学式…??」と思いながらタイピングと検索ボタンを押したうえで、でっかく「ありませ~ん!!!!」と書いてあったのを見てから書いている。
これを知らないと仮にフリースタイルの天才でもポカンとするだろうし、「アメリカの入学式=存在しない」という紐付けと観衆の理解がなければ面白くなりえない。R指定も題として出されれば眉をしかめると思う。


話は変わるが、自己都合退職に卒業式および退職式はない。いや、というか自己都合退職自体をおおっぴらに祝う儀式はそもそもあんまりない。自己都合だから。退職記念飲み会とか、定年退職金はギリ知ってるくらいで。
なんでこんなに話が飛んだかって、自己都合退職を僕自身が一昨日したからだ。

思ったよりも、実感がない。

おおっぴらに何かを祝う儀式や弔う儀式の、それ自体には意味はないと感じている。
だけど、「儀式的なもの」の本当の意味は「やりました感」にあると個人的には思う。
区切りといえばそうなるだろうけど、事柄が起こっている当人に強く、終わった/始まったと思い込ませる作用があるはずだ。

僕が本当に辞める時にしたこと・されたことといえば「置いてた私物をバッグに入れる」「制服をクリーニングのために既定の場所に出す」「頑張れよと肩をポンと押される」「お世話になりましたと言う」くらいだ。明日から来なくていいんだな~とは思ったけど、今のところ辞めて二日そこらで土日に家にいるだけだから本当に実感がわかない。
ゆるゆるブラックアットホーム企業だったからかもわからないが、ハンコも押してないし退職届も出してないしマジで一か月前に面談しただけだ。
辞められてるのかこれ?という気持ちが今も続いている。

それこそ何日も経って平日の昼間にゴロゴロしてから実感と焦燥感が湧いてくるのかもしれないが、今の自分にはそれがない。焦燥感すらも。転職先も決まってないのに、ちょい長めの休暇だな、くらいの認識で時を過ごしている。

逆に、アメリカの入学式が存在せず、オリエンテーションを軽くやって始まるのなら、僕だって前職を辞めた実感がないまま次の職に就いていてもおかしくない。
儀式的に終わりと始まりがある、というのが絶対ではなく、ぬるっと始まる終わりと始まりがあるのなら、実感がない今からもう始まっていたっておかしくない。僕は今、大きな括りでは就職している。

無職じゃないです。
就職と就職に挟まれてるので、オセロ方式で無職じゃないです。

でもアメリカの学校って卒業式はあるよね…?って気づき始めた僕は、ここで一時間経過しそうになっているのにも気づいて、急いで誤字だけチェックして保存した。
時に急かされて終わりを告げるのも、また雅なものですね。

気づきにつき築き上げたもの傷つき納品、月々数千円のキツツキ付き yo
適当言ってんじゃないよ。こなまるでした。