こんちゃ。こなまるだよ。
最近になって気づいたことだけど、何ひとつ取り繕っていない時の僕はあまりにも多弁だ。
例えば「多弁」という言葉ひとつで、「これは人狼だったらグレーランダムローラー1歩手前の怪しさだ」とか「言語野の繋がりを花弁と雌しべの繋がりに例えるなら、繋がりが多すぎてアジサイもびっくりよ!多弁だけに!多量の!花弁ってことで!ね!」とか「なんか多弁って弁当大量にあるみたいで腹が空きますよね」とか複数のルートに分岐してしまっている。
あるいは「タベンベンベベンベンッ↑ベン↓」とスーパーマリオの1面を奏で始めるルートまで存在している。これはもう半分嘘だけど。
ただこういう嘘の分岐も思いつく以上、選択肢には存在しているということになる。あまりにテンションがハイなら口に出すことだってありえない話ではない。
浮かんでは消え、出しかけのくしゃみのようなモヤモヤを残して去っていくこの分岐たちをどうにかしてひたすら出し切ってしまいたい時がある。
気を抜くと多弁な一面が顔を出すのは、いわば生理現象のひとつなのだ。あくまで僕の中では。
声帯ひとつ顎ひとつ、唇ひとつ口ひとつをひとまとめの機能として喋りきるのでは事足りない。
それぞれが単独で声を発する事ができたとして、それでようやく僕の脳内のうるさすぎる分岐たちと対等の情報量だ。
実際ヒト1人の首から上で一斉に4つ5つも違うルートに話を進める怪物がいたら流石にかの聖徳太子も聞き返す、というかキレかけるだろう。それとも様相があまりにも妖怪すぎて怖がっちゃうんだろうか。
今だって、「聖徳太子の色んな人の話聞いてた逸話めっちゃ嘘らしいね、でもあったことにした方が慣用句的に使えて面白いよね」と書くのを我慢したがこの形で一文添えてしまった。どんなに話が逸れても許されるならずっとどうにか会話するか書き連ねるかしていたい。ただまあ実際に喋り倒すと恐らく喉や体力が尽きるのが先だ。
聖徳太子もキレるか怖がりだすような。そういう情報量の脳と日々を暮らしている。
この情報量の多さは僕のチャームポイントで自慢でもあるし、コンプレックスで自虐でもある。
こういう脳と上手に付き合ってる方ではあるんだろうけど、未だに困る。
こんな多弁な脳にも優しく、話を逸らしまくっても自分語りをしても、分岐を広げても閉じても無視しても折っても何となく許される感じがする相手。
それがたまたま1人遊びとして使うブログなんだと思う。Twitterもまあ似たようなものではあるんだけど、ちょっとだけ許される範囲が狭いかなって。
僕の中でブログは、「話に付き合ってくれた感」だけくれる最高の聞き役で、分岐を残したまま他の分岐も話せる複数の声帯で、ボコボコに書き殴っても耐えるいい感じのサンドバッグで、ふと見返したら記録が残ってるたのし〜おもちゃなのだ。
多弁で煙たがれるくらいなら、自制して寡黙に思われるなら、生理現象の1つとまでするそれを我慢するくらいなら。
このブログっておもちゃで遊んだ方がいいと感じることが、時たまある。
そういうわけで、毎日書けたらいいな〜とか思いました。基本独り言だけどね
時たま。卵かけご飯食べたくなっちゃった。