粉。趣味:ぶろぐ

ぼくの趣味はぶろぐです

居場所と居るべき場所の中間地点で

僕は、不登校だった。

 

高校3年になった今でも尚、教室が辛いのは変わっていない。「不登校だった」と過去形にするのは相応しくないくらい、授業を休むことも多い。

それでも過去の話だと思えるのは、今の高校だからこそなのかもしれない。

あ、どうも、粉。(こなまる)です。

 

小学4年生の頃、不登校になった。ヒステリックな指導をする担任の女教師が原因だった。僕以外にも一時的に長期欠席状態になった生徒が3,4人は居たらしい。

朝から泣き呻き頭痛を訴える僕と発熱を示す温度計を見た母は、何も言わない僕に何も聞かず、無理をさせまいと休ませた。元々教室が嫌いで行き渋りがあった僕は、それをきっかけに立ち直るのが難しくなった。それで、半年が経っていた。

 

4学年が終わりその担任が辞職しても、僕は学校に行けないでいた。無気力な自分を奮い立たせ学校に足を運ぶ度、どんどん学校が嫌いになっていった。

半年の間やらなかったことが牙を剥いたようだった。同級生も半年合わなければコミュニケーションがうまくできない。何よりろれつが回らないし、うまく笑顔になれない。不自然な僕に対する視線は冷たかった。

人の輪に入れないくらいなら家で一人の方がマシだったし、授業もわからない部分から始められるより自分でやった方がマシだった。どうやら、正式にひきこもりになったようだった。

ずっと、ずっとこれでいいのかと迷ったまま逃げて、自分を責めて、2年が経っていた。

 

中学生になった僕は、心機一転の気持ちでいた。もう自分を責めたくなかった。

それでも、気が続いたのは1年と半年の間だけだった。外から見れば問題はなかったが、学校ギライは加速していた。

溜め込んだ嫌いは些細な人間関係のトラブルで表に出て、僕の逃げ癖は悪いタイミングで再発した。受験期だった。

 

受験を控えて勉強をしない訳にもいかず、登校支援教室に通い始めた。支援室は他にも数名の生徒が居たけど居心地は良くて、ぼちぼちながら通うことができた。

あくまで教室に上がるための支援室だったから、先生からは何度も教室に上がらないか持ちかけられた。僕の居場所は支援室だったけど、居るべき場所は教室だった。その中間地点のトイレで嘔吐してしまったことは、一度や二度じゃない。

「楽な居場所」と「辛くても居るべき場所」を何度も天秤にかけ決断を迷っていたが、楽な居場所でずっと迷っている以上、僕の天秤は「楽な居場所」に傾くほかになかった。

そうして内申も足りるはずがなく、志望校には落ちた。

だけど、今の高校に出会えた。

 

 

今の僕が通う高校の生徒の約7割は、不登校経験者だ。「不登校を受け入れる学校」として有名な私立全日制単位制の高校で、県外から通う生徒も少なくない。

不登校と一口に言っても状態や環境は様々だが、自分と似たような境遇の子も多く小学中学と比べれば圧倒的に通いやすい。サポートも手厚い。学校全体が支援室の延長のようだった。

甘っちょろい綺麗事に聞こえるかもしれないが、僕はこの学校のおかげで、ずっと否定してきた不登校の自分をちょっとだけ肯定できた。おかげで嘔吐も発熱もない。頭痛はたまにあるけど。

決断を先延ばしにすると、迷いに導かれる。そんな風に感じた。

 

そんな僕にまた、決断の時がやってこようとしている。進学、就職、どんな生き方をするのか。

決断が下手な僕のことだから、また迷うだろうし、逃げるだろう。

そうして導かれた先が、僕の決断の答えなんだと思う。

 

こちらからは以上です。

粉。でした。