粉。趣味:ぶろぐ

ぼくの趣味はぶろぐです

ラジオって文化は何人の命を救ったんだろう

文化って時に人の命を救いますよね。どうも、粉。(こなまる)です。

救うにいたるまで傷つけたのも、なんらかの文化の力によるモノなんだろうけど。文化って言葉の枠、ちょっと広すぎやしないかい???(大泉洋)

 

オデ、ラジオ、スキ

それはさておき、僕はラジオが好きです。ヘビーユーザーとかヘビーリスナーとかではないけど、まあそこそこ好き。よく聞いていたのはオードリーさんとバナナマンさん。この二組は自分の中では王道だと思ってます。

なんとな~くの個人的なイメージですが、文章を読むのが好きな人はラジオの文化も少しかじるイメージがあります。自分の親がそうだったからってだけなんだけど。

静寂は人を寂しくさせます。 が、それを癒そうとテレビを見ても、情報の量と遠い感じの騒がしさがもっと寂しさを加速させます。僕の場合は。

心身が元気だとテレビを見るのもとっても楽しいんですけどね。心の底から面白く感じるかは別として。

その点、ラジオは耳から入る情報だけで、文章は目を通して送られる言語情報だけです。極論言えば目か耳をふさいでいても感じられる情報。それこそが魅力です。
情報量は多すぎるとうるさい。ウワ~ッ!ウルセェ~ッ!ってなる。その情報量が捌ける時でないと厳しい。

 

ラジオ、キョリ、チカイ

ラジオはリスナーとの距離が近い、なんて言います。確かに距離は近く感じます。

なぜでしょう。お便りが読まれるから?それとも内容?くだらないから?

とりあえず、お便りを全く読まないオードリーのリスナーもといリトルトゥースの僕としては、距離の近さはお便りから来るものではないんじゃないかと感じています。お便りを送る人は、リスナーの中でも一握りですし。

本当のところソレがなぜ近くに感じるのかは知りません。個人の推察としては聴覚情報オンリーなのがそうさせているんじゃないかなと。

目を閉じてしまえば、すぐそこでラジオのパーソナリティーが喋っているように感じませんか?感じませんか。はい。言ってることは間違ってないけどしっくりきませんね。

あと、毎週のように2時間喋りだけで番組を作るってなると、内容もくだらなくなっていきます。それが逆に良い。

知らない人間の日常の延長って、聞いてるの超楽しいから。 時に共感できて、時にツッコミたくなる。

ラジオ、イノチ、スクウ

じゃ、命を救いがちなのはなぜでしょう。
人は死にたくなるほど元気がない時、情報の多さを受け付けません。ソースは僕。

そういう時に目を閉じるのも、無性に眠たくなるのも、体を起こしたくなくなるのもこのせいだと思っています。それなのに静かすぎると段々と悲しさは増すもので。

深夜のTwitterに死にたい系ツイートが溢れるのも、情報が少なからずある場所で、悲しさをまぎらわしているんだと思ってます(失礼)。

情報は受け付けないんだけど、静かなのは嫌なんです。

そんな中でラジオ聞いたら、そら惚れるやん。ちゃいます???ちゃうか。

元気がない時に他人のくだらない話を聴くのって案外適してるんですよね。

それが楽しみになってしまえばこっちのモノ。そのあとは命を救ってもらいました系のおハガキが書けるようになります。

要約すると、情報量の少なさと希望的な楽しみが命を救ってる…のか?わかんないけど。

ということで、命を救うのは「細い情報」と「少しの楽しみ」!

これでいこう。うん、これでいこう。これでいこう。(こなまる心の川柳)

 

久しぶりにラジオ聴こうと思った粉。でした。